新内 新内節 富士松延治太夫



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新内とは
むかしむかし宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)という人がおりました。
彼は始め、京都で一中節(いっちゅうぶし)を語っておりました。静かな一中節では自分の感情を表現しきれなくなり、もっと感情を吐き出すことの出来るような、抑揚の激しいフシで語りたいと、悩みに悩み自分独自の芸風を作り、彼の芸風豊後節が出来ました。豊後節は江戸で大いに受け、よそものの豊後節が江戸の人気をさらったのですから風当たりも強く、その風吹き荒れてとうとう「豊後節禁止」のおふれが出て詮方なく豊後掾は京都へ帰る。しかし多くの弟子たちは江戸に執着を持ち、何とか江戸で芸渡世を続けたいと努力する。結局、看板を変え独立して新しい流派を名乗りました。「常盤津」 「富本」その富本から別れて「清元」が出来た。その他に「富士松」というのもできました。
新内の元祖です。富士松の一門で敦賀太夫というのが間もなく独立して鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗る。すなわち鶴賀派の元祖です。するとその一門に新内という人がいて、これが無類の美音です。伝説によれば「鼻に抜ける声」にたまらない味があって誰も彼もこの新内の芸風をまねたというのです。新内は初期には歌舞伎に用いられていたが、後に歌舞伎から離れ、主として吉原を根城に行われ、いわゆる「流し」という街頭芸になっていった。始めは各流派が流していたが、鶴賀新内が流しに参加し始めたころから「富士松」とも「鶴賀」とも言わないで新内流しが出来た。新内は貧しい階級の中で守り育てられてきたことも他にない特徴ではないか。

参考文献 同成社 定本 新内集より
新内流しとは
新内節演奏家の営業法の一つ。普通2人1組となって、普通三味線の手と、それより高い調子の三味線(上調子といいます。)この2丁の三味線で合奏し三味線を弾きながら、街頭を歩いていきます。
上調子の人は小さいバチで演奏します。この2人で、あの流しの音色は奏でられます。

よばれた時のみ座敷に上がって、または屋外に立って芸を聞かせる。また、流しをすることは、修行の一つでもあった。








横浜リッチホテルでの新内流し



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